執筆者:山中 詩乃 映像表現・理論コース 1年
リュック・ベッソン監督による『サブウェイ』は、1980年代フランスの都市文化を色濃く反映した作品である。本作は、パリの地下鉄を舞台に、地下世界で出会うアウトサイダーたちの交流や逃亡劇を描いているが、犯罪行為をテーマとするクライム映画に留まらず、当時の若者文化や都市の孤独感を比喩的に映し出す。
都市と地下空間の象徴
『サブウェイ』の最大の特徴は、物語の主要な舞台がパリの地下鉄である点だ。地下鉄は都市の内部に張り巡らされ、まるで人体における血管のようである。そして、人々を無数に運ぶインフラであると同時に、現実世界の「裏面」を象徴する場所のようにも見える。それは本作における地下鉄が社会の秩序から外れた人間が集まり、その場しのぎの共同体を形成する空間として描かれるからだ。主人公フレッドが警察や権力から逃れ潜伏する場所が地下鉄であることは、単に物語の装置ではなく、現代都市が抱える孤立と逃避の構造を反映している。光のあふれる地上のパリとは対照的に、地下は閉塞的で、しかし自由でもある。そこに生きる人々は、社会的に「敗者」とされる存在であり、彼らが築く共同体は、消費社会からドロップアウトした者たちのユートピア的空間として機能する。
登場人物とアイデンティティ
本作に登場する人物たちはいずれも社会に馴染めず、浮遊するような存在である。フレッド自身、強盗で得た書類を抱えて逃げるが、犯罪者としての自覚というよりも「生きる場所」を探す若者の側面が強調される。地下鉄で出会うドラムやベースを奏でる若者たち、あるいはスケートボードを楽しむ少年たちもまた、社会の末端に位置しながら、音楽や身体表現を通して自分たちの居場所を探そうとしている。
特筆すべきは、フレッドと富裕層の妻エレナとの交流である。エレナは上流社会に属しながら、退屈と抑圧から逃れるようにフレッドに惹かれていく。彼女の存在は社会的には「勝者」であっても内面に空虚を抱えていることを示し、地下世界の自由さに魅了される過程はブランドや物質的豊かさで幸福を測る価値観が支配した80年代の消費社会における、人間関係の希薄さや自己喪失の象徴として読める。物質的には満たされているのにも関わらず、心の交流や生の実感が欠落していた時代背景を反映している。さらに、彼らの関係性は単なる恋愛の枠を越え、「社会の中心と端を繋ぐ象徴的な接点」として機能している。フレッドは地上社会の秩序や成功から疎外された若者であり、エレナはその秩序の内部にいながらも息苦しさを感じている。二人が出会う地下鉄という空間は、階級を超えて交わることができる唯一の場として描かれ、そこに彼らのアイデンティティの揺らぎと再構築のきっかけが生まれる。
このように、『サブウェイ』の登場人物たちは社会的に自由ではないが、音楽や行動を通じて“生きる実感”を探し続ける存在である。彼らの浮遊するアイデンティティは、80年代フランスの若者文化に見られる疎外と欲望の構図を象徴しており、当時のフランス社会が抱えていた移民問題や極右勢力の台頭とも深く結びついている。失業率の上昇や社会的不平等の拡大によって、若者たちは将来への展望を失い、同時に移民の増加による多文化化の中で自らの立ち位置を失っていた。その一方で、極右政党の伸長は排外的な空気を生み、都市に生きる若者たちは「どこにも属せない」感覚を強めていった。こうした時代背景の中で、地下鉄という閉ざされた舞台は、彼らが社会の軋みから逃れ、自らの心理的風景を映し出す鏡として機能している。
特筆すべきは、フレッドと富裕層の妻エレナとの交流である。エレナは上流社会に属しながら、退屈と抑圧から逃れるようにフレッドに惹かれていく。彼女の存在は社会的には「勝者」であっても内面に空虚を抱えていることを示し、地下世界の自由さに魅了される過程はブランドや物質的豊かさで幸福を測る価値観が支配した80年代の消費社会における、人間関係の希薄さや自己喪失の象徴として読める。物質的には満たされているのにも関わらず、心の交流や生の実感が欠落していた時代背景を反映している。さらに、彼らの関係性は単なる恋愛の枠を越え、「社会の中心と端を繋ぐ象徴的な接点」として機能している。フレッドは地上社会の秩序や成功から疎外された若者であり、エレナはその秩序の内部にいながらも息苦しさを感じている。二人が出会う地下鉄という空間は、階級を超えて交わることができる唯一の場として描かれ、そこに彼らのアイデンティティの揺らぎと再構築のきっかけが生まれる。
このように、『サブウェイ』の登場人物たちは社会的に自由ではないが、音楽や行動を通じて“生きる実感”を探し続ける存在である。彼らの浮遊するアイデンティティは、80年代フランスの若者文化に見られる疎外と欲望の構図を象徴しており、当時のフランス社会が抱えていた移民問題や極右勢力の台頭とも深く結びついている。失業率の上昇や社会的不平等の拡大によって、若者たちは将来への展望を失い、同時に移民の増加による多文化化の中で自らの立ち位置を失っていた。その一方で、極右政党の伸長は排外的な空気を生み、都市に生きる若者たちは「どこにも属せない」感覚を強めていった。こうした時代背景の中で、地下鉄という閉ざされた舞台は、彼らが社会の軋みから逃れ、自らの心理的風景を映し出す鏡として機能している。
音楽・映像表現の革新性
『サブウェイ』はストーリー以上に映像スタイルで記憶される映画である。特に印象的なのは音楽であり、エリック・セラによるシンセサイザーサウンドは、当時のテクノロジーへの憧れを象徴する。地下鉄構内の薄暗い空間に照明が灯り、スーツ姿の通行人や逃亡者たちが立ち止まり、フレッドの仲間たちとともに音の渦に包まれていく。規則や階級の境界が一時的に消え、観客と演奏者が同じリズムを共有するこの瞬間は、まさに地上世界の秩序から解放された“祝祭”として描かれている。音楽が鳴り響くことで地下世界は一つの共同体となり、彼らの孤独や焦燥が一瞬の輝きとして昇華されるのである。まさに、劇中で即席バンドが結成され、観客の前で演奏するシーンは、物語を通じて「若者たちの自己表現の祝祭」として機能している。
映像面では、ベッソンが後に「リュック・ベッソン的映像」として知られるスタイルを確立しつつある。ベッソンの映像には広告的なテンポの美しさが色濃く反映されており、強いコントラストの照明、ガラスや金属などの反射素材の多用は、冷たく閉ざされた都市空間を幻想的に映し出す。スケートボードやローラースケートによる移動のスピード感、地下鉄の長いトンネルを利用した構図は、都市の閉塞を描きながらも独自のリズムを生み出す。ミュージックビデオ的な快感を先取りしているようにも見える。こうした表現手法は、映画という枠組みの中で音楽が独立し、物語の補助ではなく、登場人物の感情と環境を直接的に形づくる要素として機能させた点で画期的である。これらは単なる犯罪映画の枠を越え、映像と音楽の融合によって観客を陶酔へと誘う。
映像面では、ベッソンが後に「リュック・ベッソン的映像」として知られるスタイルを確立しつつある。ベッソンの映像には広告的なテンポの美しさが色濃く反映されており、強いコントラストの照明、ガラスや金属などの反射素材の多用は、冷たく閉ざされた都市空間を幻想的に映し出す。スケートボードやローラースケートによる移動のスピード感、地下鉄の長いトンネルを利用した構図は、都市の閉塞を描きながらも独自のリズムを生み出す。ミュージックビデオ的な快感を先取りしているようにも見える。こうした表現手法は、映画という枠組みの中で音楽が独立し、物語の補助ではなく、登場人物の感情と環境を直接的に形づくる要素として機能させた点で画期的である。これらは単なる犯罪映画の枠を越え、映像と音楽の融合によって観客を陶酔へと誘う。
『サブウェイ』の位置付け
『サブウェイ』は一見すると若者の犯罪と逃亡の物語だが、その本質は1980年代フランス社会における都市文化の話である。高度消費社会において阻害された若者たちの居場所探しを、地下鉄という象徴的空間で描いた点に本作の意義がある。また、エレナのように上流社会から地下社会に引き寄せられる人物を描くことで、社会の中心と端の境界を問い直す。
さらに、音楽と映像が結びつくことで「物語以上に感覚的な映像体験」が提示されており、これはベッソン後の作品群へと連なる実験でもある。この映画は、単にスタイリッシュな娯楽作ではなく、都市と人間の関係、共同体と孤独、音楽による自己表現といったテーマを鮮烈に体験させてくれる教材のような作品である。
『サブウェイ』を批評することは、1980年代という時代を批評することでもある。そこには都市に生きる若者の孤独と可能性が刻み込まれており、今もなお観客に問いを投げかけ続ける。
さらに、音楽と映像が結びつくことで「物語以上に感覚的な映像体験」が提示されており、これはベッソン後の作品群へと連なる実験でもある。この映画は、単にスタイリッシュな娯楽作ではなく、都市と人間の関係、共同体と孤独、音楽による自己表現といったテーマを鮮烈に体験させてくれる教材のような作品である。
『サブウェイ』を批評することは、1980年代という時代を批評することでもある。そこには都市に生きる若者の孤独と可能性が刻み込まれており、今もなお観客に問いを投げかけ続ける。
選評
本稿は、1980年代のフランスの社会が抱えていた問題への言及がなされているところがユニークな点でした。それが現在の我々がこの作品を観る時にどう関係してくるのかまで発展できると、より考察として面白くなると思います。これを踏まえた時、“音楽が鳴り響くことで地下世界は一つの共同体となり、彼らの孤独や焦燥が一瞬の輝きとして昇華されるのである。”と評されたラストの捉え方は、今、私たちがこの作品を観る時、文中にもある“生きる実感”として、説得力を増してくると思いました。
総評
本作は、あえて映されない省略されたストーリーを、登場人物の会話の中にバラバラに散りばめることで済ませてしまって、ある限定された時間軸の中だけで映画は描かれるため、プロットらしいプロットが無いように思えたかもしれません。おそらくは、リュック・ベッソン作品で唯一? 映画の冒頭にエピグラフが使われている作品であることはもっと注目されてよいかもしれません。そのエピグラフは、こうです。
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To be is to do存在は行動なり(ソクラテス)
To do is to be行動は存在なり(サルトル)
Do be do be do ドゥビ・ドゥビ・ドゥー(シナトラ)
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エピグラフとは、作り手がその作品でイメージしていることの根拠や作品のテーマを示唆するものです。この『サブウェイ』のエピグラフについて過去、書いていますので、読んでいただけたら幸甚です。
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To be is to do存在は行動なり(ソクラテス)
To do is to be行動は存在なり(サルトル)
Do be do be do ドゥビ・ドゥビ・ドゥー(シナトラ)
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エピグラフとは、作り手がその作品でイメージしていることの根拠や作品のテーマを示唆するものです。この『サブウェイ』のエピグラフについて過去、書いていますので、読んでいただけたら幸甚です。


