マノエル・ド・オリヴェイラ。100歳を超えて映画を撮り続けたポルトガルの映画作家──。こうした情報によって、もし、彼のことをなんとなく、クラシカルなスタイルの映画を撮る“巨匠”という風にとらえているとしたら、あなたは幸運だ。なぜならば、その思い込みは気持ちよく覆されることになるからだ。
オリヴェイラは、映画とストーリーの関係性について過激なまでに意識的な映画作家だ。彼の作品を観る時には観客は、「今、見えているのは何か?」、「物語を語っているのは誰か?」という問いと否応なしに向き合うことになる。
オリヴェイラの映画では、ナレーションのようにスクリーンの外側に物語の語り手がいるだけでなく、そこに映っている登場人物が突如スクリーンを見ているこちら側に向かって語りだすということがある。
そういう時には、その語りが、スクリーンに見えている光景をなぞって説明するような形となるのは、よくあるパターンだ。しかし、ラディカルな映画の探索者であるこの作家は、そんな手ぬるいことなどしない。情景や状況を映し、それらが積み重なっていくことで、観る者の中に物語が生成されるわけだが、その物語だけでは足りず、イメージを拡張する必要がある。そこで、それとは別に語り手を入れて、映し出される映像と語られる言葉によって映画を編む。オリヴェイラは、あらゆる手を尽くしてそのことに挑んでいるのだ。
映画とは何か──。決して訊かれることのない、この途方もない問いに対する答えは、「映像と言葉と音とが重なり合うことでそこに立ち上がる、そのいずれでもない“なにか”」というのが、ザ・シネマメンバーズというプロジェクトを通じて一貫して考えてきたことだった。
それがオリヴェイラの作品の中にはある。
鮮烈な例をひとつだけ取り挙げてみよう。『アブラハム渓谷』における1シーンだ。それは、
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エマは6歳で母親を失った。
あの頃、耳が痛むと耳に母乳を入れてもらった。
その滴りと乳房の感覚は鮮やかに憶えている。
―――
という声が聞こえる。その語りとともに映像のなかのエマが花瓶からバラを一輪、手に取り、その香りを飲み干すかのように嗅ぐと、ピアノの旋律が聴こえてくる── というものだ。これが映画だ。その動きを捉えている“ショット”が映画なのではない。語られる言葉、聴こえてくる音楽、それらすべての連なりによって、映像、言葉、音楽、そのいずれでもない“なにか”がそこに立ち上がっているのを知覚できるはずだ。その時、あなたはその“なにか”を何と呼ぶのか──。
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エマは6歳で母親を失った。
あの頃、耳が痛むと耳に母乳を入れてもらった。
その滴りと乳房の感覚は鮮やかに憶えている。
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という声が聞こえる。その語りとともに映像のなかのエマが花瓶からバラを一輪、手に取り、その香りを飲み干すかのように嗅ぐと、ピアノの旋律が聴こえてくる── というものだ。これが映画だ。その動きを捉えている“ショット”が映画なのではない。語られる言葉、聴こえてくる音楽、それらすべての連なりによって、映像、言葉、音楽、そのいずれでもない“なにか”がそこに立ち上がっているのを知覚できるはずだ。その時、あなたはその“なにか”を何と呼ぶのか──。
しかし、それを確かめようとして、『アブラハム峡谷』を最初の1本として観るのは順番としてはお勧めしない。『カニバイシュ』か、『絶望の日々』が良いのではないだろうか。というのも、この2作は、いわゆるナレーションではなく、映画の中で狂言まわしが存在する、あるいは俳優が物語を語りだすというものだからだ。見えている映像と語られるストーリーという構造が見えやすくわかりやすい。短くご紹介しておこう。
『カニバイシュ』は、オペラの形式をとり、狂言回しをするタキシードの男と伴奏をするバイオリン奏者によって、ストーリーがガイドされていくが、導かれてきた観客を嘲笑うかのようにクレイジーな展開を見せ、「ほらごらん、あなたの追って来たストーリーなんぞ、こうしてやる。」とでも言うかのように、話の筋を追う者を立ち往生させる。そしてガイドしてきたバイオリン弾きはポン!と消え、フェリーニ的な大団円の悪夢バージョンへ。80歳でこれを撮ったオリヴェイラ、狂いすぎでしょう!
そして『絶望の日々』こそが、実は、今回のオリヴェイラ5作品の中では、これを1本目に観たら良いのではないかと思っている作品だ。父から娘への手紙の朗読があり、娘の独白へ。これによって物語が我々に示されるのかと思いきや、娘、父を演じていた俳優が、こちら側に向かって語りだす。その時、俳優は映画のストーリーの中から外へと移動する。
ストーリーの中で生きているように見えていた登場人物が、かつらを取り、語りだす時、あるいは、部屋の間仕切りとなるカーテンを閉めてこちら側を向き、口を開く時、“登場人物”から、それを演じていた“役者”へと移行する。そうやって俳優がストーリーの内側と外側を行ったり来たりするさまを同じ画面の中で見せるのだ。なんという映画に対する野心だろうか。
この2作を経てから、『アブラハム渓谷』を観る時、見えている映像、語られる言葉、聞こえてくる音楽、それぞれが独立しているようでありながら、連なり合うことで、観客であるあなたの中に拡張されたイメージを結ぶということがよくわかると思う。
このほか、ルイス・ブニュエルの『昼顔』のその後を、アンリ役を再びミシェル・ピコリが演じ、彼が『昼顔』の物語をアンリとして回想するという形でストーリーが語られる『夜顔』。そして、1982年に撮られながら、自身の死後に発表するように言付けられていた為、2015年に初めて世に出された、『訪問、あるいは記憶、そして告白』もまた、ドキュメンタリーでありながらも全体をナビゲートしていくのは、画面には映ることのない、晩餐のお礼を言いに来た男女の二人語りだ。
映画のストーリーはスクリーンには映っていない。このことを頭に置いて、作品を観ていく時、オリヴェイラのラディカルさの核心に触れることができるだろう。
そして、残念ながら、このマノエル・ド・オリヴェイラの5作品を配信することなくザ・シネマメンバーズは、サービスを2026年3月末をもって終了することになる(新規受付は2月28日まで)のだが、本体であるテレビサービスのザ・シネマでこれら5作品は、3月ほか放送となることを添えて、最後の“LETTER”としたい。
6年間、ありがとうございました。


