執筆者:キョウ ジブン 大学院映像芸術専攻1年
張芸謀監督の映画『紅夢』(1991,大紅灯籠高高挂)は、蘇童の小説『妻妾成群』を原作とし、陳家における一人の当主、四人の妻妾、そして一人の侍女をめぐる物語である。作品は四人の妻妾の表裏の争いを通じて、社会階級と腐敗した家父長制、そしてその枠組みに縛られた女性の悲哀を描いている。物語は第四夫人である頌蓮の視点に寄り添い、屋敷入りから封建的規範への同化、第三夫人の死を契機とした精神崩壊までの過程を追う。点灯・消灯・封灯といった「しきたり」の反復の中、観客は高い壁と旧い院落(注)に閉じこめられた女性たちが決して逃れられない時代悲劇を目撃するのである。
まず重要なのは、人物が生活する「空間」としての大院落である。本作が撮影された山西省祁県の「喬家大院」は北方建築の典型である。頌蓮が箱を持って院落に入る場面では、門と狭い通路を進む様子が俯瞰や移動ショットで示され、清代北方民居特有の方形・狭長で外界から閉ざされた構造が視覚化される。灰色の均質な壁と乏しい装飾は空間に圧迫感を与え、高い壁と細い通路は生活空間をいくつもの四角形に分断し、空の開放性さえ制限してしまう。これは中国建築に見られる「庭院深深」という文化的特徴であるが、同時に冷え冷えとした悲劇的な雰囲気をも醸し出している。
張監督がこのような院落を物語の舞台として選んだのは、狭く閉じた環境が人物の階層や身分を視覚的に明確化し、厳しい規矩と建築空間が呼応することで、封建制度の下で女性が逃れられない絶望をより強く感じさせるためである。また、この建築構造は奥行きの深いショットを生み出すのに適しており、封建社会の圧迫的な構造を映像的に表現するうえで極めて有効である。
しかし、圧迫的な院落の外側には、短い解放感を味わえる空間も存在する。それが「屋根の上」である。頌蓮は作中で三度屋根に上る。最初は屋敷に来たばかりの頃、第三夫人の梅珊が歌う声を聞いたときである。院落の狭い空間から屋根に出た瞬間、彼女の前には大きく開けた視界が広がり、壁によって遮られない空間が一時的な「呼吸の場」として作用する。この対比は、頌蓮が再び狭い院落へ戻る際にもっとも強く表れる。二度目に屋根に上る場面では、彼女は寵愛を失ったのち、偶然「死人部屋」を見つけてしまう。本来は自由の象徴であった屋根の上で死の空間を目撃することは、屋根の象徴性が崩壊し、「どこにも逃げ場はない」という現実を示している。さらに、第二夫人の卓雲が下から彼女を呼ぶ場面では、上下の構図が「長く封建制度に縛られてきた卓雲」と「まだ完全には飲み込まれていない頌蓮」の対照を鮮明にする。三度目に頌蓮が屋根に上るとき、彼女は梅珊が「死人部屋」に運び込まれる場面を目撃し、恐怖と衝撃に圧倒される。この瞬間を境に、屋根はもはや自由の象徴ではなくなり、院落全体が逃れることのできない運命の空間として彼女に襲いかかるのである。
頌蓮という人物の悲哀は、彼女の性格変化と密接に結びついている。頌蓮が陳家に入った当初、彼女は三つ編みを結い、学生服を着ていた。かつて西洋式の教育を受け、大学に通っていたことがある。そのため、初めの頌蓮は独特の気高さと自尊心をもつ。しかし、点灯から封灯へと儀式が進むにつれ、頌蓮は次第に「家のしきたり」に馴染み、屋敷の女性たちの争いに加わり、最終的には完全に同化する。この変化は、彼女の衣装の色彩の推移からも視覚的に読み取ることができる。
初めの頌蓮の学生服は、清潔で簡素な白い上着に濃色のスカートという組み合わせであり、清純な学生そのものであった。その後、旗袍に着替えても、白や淡い色が中心で、柄があっても小さく控えめである。これは、赤や青といった鮮やかな色を好んで身につける第三夫人梅珊との対照を形成しており、この時点の頌蓮は争いに無関心で、行動にも幼さが残っていたと言える。しかし物語が進むにつれ、頌蓮の衣装に紅色が現れ始める。最初は梳妝台の前で、白い服の上に紅い上衣を羽織る。まさにこの場面から、頌蓮は食事を部屋に運ばせるよう我儘を言い始めるが、屋敷内の「女性同士の争い」を意識した振る舞いへと変化する。ここから頌蓮は鮮やかな紅を積極的に身につけるようになり、色彩の変化は、彼女が陳家での生活に慣れ、争いに主体的に加わり始めたことを象徴している。頌蓮の学生らしさはこの頃にはほとんど消え失せ、封建的な生活様式は彼女を他の妾たちと同じ存在へと同化させていったのである。
特に注目すべきは、頌蓮が第二夫人卓雲の髪を切る場面である。この時、頌蓮の衣装は黒に変わっている。頌蓮は侍女雁児の部屋で人形を見つけ、これまで優しく接していた第二夫人の偽善を知る。怒りと憎しみが強く浮かび上がり、監督はその心理を衣装の色に反映させ、視覚的に強調している。
そして物語の終盤、頌蓮が精神に異常をきたした頃、新たな第五夫人が屋敷に迎えられる。その時の頌蓮は再び学生の姿に戻っている。白い清潔な上衣に三つ編みという装いは、彼女が陳家に足を踏み入れた初期の姿である。しかしその表情と状態はまったく異なり、彼女は痛みや記憶を遮断し、無意識のうちに「最初の自分」に退行してしまっているように見える。だが、彼女は屋敷の門の前を行ったり来たりし続け、決して外へ出ることはできない。逃げられない人生と、学生服という「かつての自我」が鋭い対比を成し、頌蓮という人物の悲劇性を鮮明に浮かび上がらせているのである。
服飾の色彩以外にも、映画は「家のしきたり」を表現することで人物の悲哀を描き出している。まず挙げられるのは灯籠である。当主が誰のもとへ行くかで妻妾の部屋前に紅い灯籠が点され、去れば灯は消され撤去される。陳家の女性はまるで灯籠のために生きているかのようであり、侍女雁児の部屋に無数の灯籠が吊るされる場面からも、陳府の女性たちの運命が紅い灯籠と密接に結びついていることが分かる。濃厚な紅色は建物の灰色と強い対比をなし、本来は温かさを象徴するはずの紅色が、陳家においては恐怖の色彩を帯びているのである。
頌蓮の部屋は、彼女が屋敷に来た当初こそ灯籠の光で非常に明るく照らされていた。しかし、彼女の偽妊娠が露見し、「封灯」の処分を受けると、灯が消されるのではなく、灯籠には黒い覆いが被せられる。突如現れる黒色は灯籠を繭のように包み込み、灯籠だけでなく頌蓮自身をも包み込んでいるかのようである。屋根の軒先や部屋の中に吊るされる黒色は恐怖の気配を強調し、その恐怖は現実に近い生々しさを帯びており、中国の伝統的な葬儀場の設えを思わせる。それはすなわち、頌蓮の結末が「死」と同様であることを象徴していると言える。
灯籠以外にも、足揉み、料理の注文、そして夜になると門前に立って灯を待つといったしきたりが描かれる。監督はこれらの規則を強調し繰り返し描写することで、封建的礼教の苛酷さを陳家のしきたりを通して表現し、小さな世界から大きな社会構造を読み取らせている。
女性たちは礼節としきたりに縛られ、他者に価値を与えられる「物」のように扱われ、選別される存在である。これは封建制度の下のすべての女性に共通する悲哀であるが、頌蓮の場合、当初はこれらの規則に反発していたものの、「しきたり」という言葉が彼女自身の口から語られるようになった時点で、彼女は封建的礼教に麻痺させられたことを意味する。それこそが頌蓮の悲劇なのである。
悲劇的色彩の造形は、画面や物語展開だけでなく、音楽面にも及んでいる。作中で多用される音楽は登場人物の心理の激しい揺れを反映し、多くの場面において「喜楽が哀情を引き立てる」効果を生み出している。静寂に包まれた環境の中であえて壮大な音楽を用いることで、作品には一種の蒼涼とした叙事性が立ち現れ、人物の麻痺した表情と高揚する音楽との対照によって、観客に言葉では言い尽くせぬ衝撃と辛酸を与えているのである。
興味深いのは、梅珊の演じる戯曲の場面である。彼女が劇中で歌ういくつかの戯曲は、いずれもその人物の置かれた境遇を的確に照応している。たとえば、梅珊が歌う『蘇三起解』は、姑蘇の名妓である蘇三の悲惨な運命と最終的な救済を描いた物語であり、名妓であった梅珊が陳家の主人に嫁いだことで一生屋敷に囚われるという彼女自身の境遇と重ねられる。また、頌蓮の偽妊娠が発覚し封灯の処分を受けた後、楼上に佇む彼女の耳に届いてくる梅珊の唱劇は『花田錯』である。『花田錯』は連続する錯誤から生じる婚姻物語であり、この歌詞は梅珊自身の境遇を反映すると同時に、頌蓮への忠告あるいは諫めの意味も含んでいる。例えば、その中の「你不要高声也不要嚷,你必须眼観四路耳聴八方」という一節は、その意味するところは「大声を出さず、みだりに口外してはならない。四方に注意し、他人に悟られぬようにせよ」ということである。これは、梅珊が自らと高医師との私情に対して課した戒めであるだけでなく、陳家で暮らす頌蓮に対して気を落ち着けて過ごすべきだという諫めでもある。
表面上、梅珊は気性の激しい人物として描かれているが、彼女は内面の感情を戯曲を通して表現している。しかし『蘇三起解』も『花田錯』もいずれも本来は「良い結末」を迎える一方で、梅珊自身の運命は悲惨である。監督はこの対照によって人物の個性を豊かにし、梅珊の悲劇性を戯曲との対比の中に際立たせているのである。梅珊は戯曲をこよなく愛するが、彼女が熱心に歌うそれらは、結局のところ、自身の哀しみを語る物語なのである。監督は梅珊が最も愛する戯曲を通してその悲惨な運命を語らせており、梅珊という人物の悲劇性はいっそう強く際立っているのである。
総じて、『紅夢』は、封建制度下における大家族が女性に対する抑圧を可視化した作品である。人物の悲劇的運命の造形は多角的に行われ、諸要素が互いに呼応し合うことで、作品全体の悲劇的雰囲気は頂点へと押し上げられている。
本作における悲劇性は、至るところに表出している。頌蓮が初めて陳家に入った際、画面に表示される季節は「夏」であり、その後「秋」、「冬」と推移するが、二年目の到来を示す際には、季節は再び「春」ではなく「夏」へと跳んでいる。このような構成に特別な意図があるかは断定し難いが、中国文化圏の文脈においては、「春の欠如」と理解することも可能である。春は生命力の萌芽を象徴する季節であり、したがって陳家の女性たちには、永遠に「春」が訪れないという暗示とも読み取ることができるのである。このように悲劇性を可視化するための工夫は作中に数多く見られ、悲劇を視覚化する張芸謀の美学的設計は、本作における重要な特徴の一つである。
(注:伝統的な中国建築の中庭のこと)
(注:伝統的な中国建築の中庭のこと)
選評
本作で描かれる、しきたりに着目し、“これらの規則を強調し繰り返し描写することで、封建的礼教の苛酷さを陳家のしきたりを通して表現し、小さな世界から大きな社会構造を読み取らせている。”という視点が非常に良かったので、それを“悲劇を視覚化する張芸謀の美学的設計は、本作における重要な特徴の一つである。”という形で本稿を結ぶのはもったいないと思いました。いくつか取り挙げている表現手法などを「小さな世界から大きな社会構造を読み取らせている」という点へ収斂させて、それを現代の私たちが観る時について論旨を展開できるともっと良いと思います。(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)


