執筆者:小山 麻菜美 映像表現・理論コース 映像専攻 2年
1985年に公開されたリュック・ベッソン監督による長編2作目の『サブウェイ』は地下鉄内で完結する映画である。映画の冒頭はクリストファー・ランバート演じる主人公フレッドが重要書類を持って車で逃走し、地下鉄へとつながる階段へ突っ込むところから始まり、その後は薄暗い地下鉄の中で物語が進み続ける。迫力のあるカーチェイスの序盤以降、登場人物たちが外の世界に出ることはない。そんな限られた空間の中で進められていく。はちゃめちゃな物語はエリック・セラによる挿入曲と個性的な登場人物たちによって、監督の独特な世界観が表現されている。
行方を眩ませることに成功したフレッドは富豪夫人のエレナに書類を渡す代わりにお金を用意するよう電話で伝えた。その後エレナが護衛をつけてやってきたことを察し、書類を持ったまま再び逃走する。その際に地下鉄の裏部分へと侵入するがそこで同じく問題視されているスリの達人のスケート男と出会い仲間になる。その後地下鉄で生活を続ける中で、ドラマーや花売りなど、仲間を増やし、バンドを作りコンサートを開く。
この映画では多くの要素が混沌としている。序盤を見る限り、重要書類を持ったフレッドが富豪から逃げ続けるような物語の構図をとっているが、のちに幼馴染のエレナと恋仲になったり、現金を略奪したり、コンサートを開いたりと地下鉄という場所にはあまりそぐわない展開がある。かつて、エレナとフレッドが恋仲であったことが二人の目線の向け方や会話からわかる。エレナはお金か愛かの選択に迫られることとなる。富豪との生活を続ければお金はあっても息苦しい生活が待っており、フレッドと一緒になることを選べば愛はあってもお金に困る生活が待っている。このようにフレッドだけの物語だけでなくエレナの物語でもあるのだ。現金を略奪する計画を立てる場面でも銀行や豪邸の金庫などといったお金がたくさんあり、よく映画の中で強盗が起こる場所ではなく、駅のホームで完結する。そして何より地下鉄構内の中までバンドを組み、コンサートを開くことは現実世界では考えられないことである。ラストの場面はリアリティーに欠け、むしろファンタジックに描かれていた。フレッドの物語だけでなく、エレナの物語やなかなか一緒に組み合わされないもの同士が重なり合って混沌とした世界を作り上げている。
この作品に登場するキャラクターたちはとても個性的で薄暗い地下鉄の中でも登場目立っている。しかし、周りの人々は無関心で、目線を少し向けるのみであり、地下鉄内での彼らの空間は限定されている。特にフレッドの金髪にスーツ姿は地下鉄内ではとても目立っている。そんな姿で駅構内を逃げ回っているにも関わらず、周りの人々は特に興味を示さない。また地下鉄内でローラースケートをすることは現実世界ではそうそうにない。そんな彼は地下鉄内でローラースケートをしながら警察から逃げる日々を過ごしているが、周りはあまり気に留めない。ドラムのスティックを常に持っているジャン・レノ演じるドラマーも、カラフルな花をホームで売る花屋もいかにも最初からその地下鉄の中に存在しているかの如く周囲に認識されている。いかにも富豪夫人のような振る舞いと服を着飾っているエレナも、地下鉄の空間の中ではいささか違和感を感じるのに周囲は気に留めない。よって、各登場人物は周りに左右されない、限定された人々のみが互いに関わり合っていることがわかる。
そして冒頭でソクラテス、サルトル、シナトラの言葉が並んで紹介される。サルトルが提唱する「行動は存在なり」やシナトラの「ドゥビ ドゥビ ドゥ」はフレッドの生き様だけでなく彼の周りの人間の自由な生き方を象徴する。フレッドは特に後先考えず行動をし、どんなことが起ころうとも彼の中では今が楽しければ人生どうなってもいいといった具合だ。それは彼が事故に遭って5時間の手術、5ヶ月の入院、5年間発声できなかったことが影響しているが、彼という存在自体が未来や過去にとらわれない現在を生きる個体としてこの映画では表現されている。他にも、スケート男も警察に追われる身でありながら、スリルを楽しみ、懲りずにわざと目立つような行動をする。ドラマーもバンドを組んでコンサートをすることを承諾するし、エレナは自身の幸せのために安定した生活ができる富豪との生活を捨て、フレッドの仲間たちと一緒に地下鉄で過ごすようになる。そんな彼らは人生における大変な出来事を深く考えず、彼らの目の前にある楽しみや幸せを追い求めている。
それとは対照的に警察や富豪、その手下などは自由に行動ができない存在として描かれている。この作品の中で彼らはフレッドやスケート男をつかまえるために行動を起こす。ソクラテスの「存在は行動なり」のように彼らには映画内での決まった役割があり、その役割を遂行するだけの人物たちなのである。自由奔放に生きる他の登場人物たちとは異なり、捕まえたり、追いかけたり、調査したりと彼らが存在する理由は決まっており、唯一、フレッドたちと会話することを通じてのみお互いの人生に干渉し合う。そして警部たちは通行人などの人々たちとは会話をすることはないし、物語の進展に関係のない雑談もすることはない。富豪とその手下が話す場面も警部が花屋と話す場面でも事務的な会話がほとんどで、それ以外の話はせずに会話が終わってしまう。その結果、主要な人物たちとのみ関わり合い、物語を妨げない必要最低限の会話で進行していくこの作品は空間的には狭い。また、窮屈に感じられ、より決められた空間の中でしか行動が発生しない。
このようにこの作品では決められた地下鉄の空間の中でフレッドvs警察、フレッドとエレナの恋、バンド仲間を集めてコンサートを開くなどといった多種多様な要素が互いに混ざり合い混沌とした物語構成で監督独自の窮屈な世界観を表現している。またそれぞれの服装も薄暗い地下鉄内では派手に見え、フレッドもスケート男もそれぞれ富豪の手下や警察に追われる身となるが、周りの人々は彼らを捕まえることに協力しない。置物のようにそこいるだけのような存在である。個性的な登場人物たちが目立った行動をする割に彼らの反応は無に近く、そこにリアルさはない。むしろ観客にある一種のファンタジー映画を見ているような感覚にさせるのだ。
選評
本稿で、多種多様な要素が地下鉄という限定された空間において混ざり合う物語構成に着目したところは、面白いポイントでした。一方で、“現実世界では考えられないこと“ “リアリティーに欠け”と評された要素がありましたが、それをもって、本作をファンタジーとするのは、少し寂しい気がしました。ある種、荒唐無稽なこの物語がなぜファンタジーとして観客を楽しませることができるのかを考察していくということも選択肢としてあると思いました。(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)


