執筆者:今井詩乃 映像表現・理論コース 映像専攻3年
風櫃だなんていう素晴らしく寂れた響きを持つ地名の漁村には、いつも海風が建物の間を吹き抜けてヒューヒューと音を立てている。村は質素な色で包まれ、吸い取られてしまったかのように鮮やかさがない。どんよりとした昼に、子供はあてもなく歩き、老人はビリヤードのプレイを眺め、女たちは小銭を賭けて遊ぶ。この退屈すぎる村にかまけて、主人公アチン率いる不良少年たちは些細なことで喧嘩をしては、灰色に密集した建物の間を風と共に駆け回って時間をつぶす。
そんな薄ぼけたような釈然としない風景の中でさえも、彼らは十分に元気よく生きているはずなのだが、なかなかこの風景から彼ら自身の姿が浮かび上がってこない。私にはとてもじれったく感じた。彼らのそれぞれの表情や性格や個性など、読み取りたいことは沢山あるにも関わらず、彼らがこの村にいる限りはそれらを細かく感じることは出来ない。その代わりに、この寂しげな村で少年同士の関わりやその他の派閥の少年との関わり、家族との関わりなどの周囲と少年たちの関係性を緻密に感じさせることで、彼らの抱えている問題をさりげなく浮き彫りにしている。それらの問題が複雑に絡み合って、彼らはふと思いついたかのように風櫃を後にして対岸の都会である台湾本島の高雄へと向かうのであった。風櫃という土地とそこで生まれ育った少年たちが同時にフレームに収まるからこそ、寂れた漁港でしかない風櫃は、彼らの生まれ故郷、そして彼らの聖地として固有の存在感を持って息づく。侯孝賢は、土地と人間の関係性を丁寧にフレームに収めた上で、そこに浮かび上がるストーリーテリングを大切に扱う作家なのだ。
もし私が風櫃に生まれたとしたら何をして毎日をやり過ごすのだろうか。そんなことを考えながらこの映画を見ていた。それはこの映画が、遠く離れた知らない場所の出来事のこととは思えなかったからだ。同じアジアの国だから、というわけではないが、どこか日本との共通点があるのではないかと思えた。とは言っても台湾という外国の、しかも本島からは少し離れた澎湖島の風櫃という場所のことなんて、私は何も知らない。もちろん、その場所の若者がどういった人生を歩んでいくのかなど見当もつかない。彼らはいかにして人生を過ごし、いかにして幸せになるのだろうか、また彼らはその方法を知っているのだろうか。そんな疑問抱きながら映画を見るうちに、それについては彼らさえもわかるわけがないことに、段々と気が付いた。どうしたら幸せになれるか、どうしたらより良い人生を送れるか、そんなことは誰にもわからない。ましてや台湾は、歴史に翻弄され、今でさえ大国の狭間で妙なバランスの最中にある。常に揺らいでいる社会が人々に深く影響しているのではないかと思う。
第二次世界大戦後、日本の降伏により台湾は日本統治から中華民国の統治へと移り変わった。政治が変わり、文化が変わり、言葉が変わり、と様々な変化を強いられた戦後の経験は台湾の文化に深く刻み込まれている。この作品は侯孝賢の自伝的作品と言われているが、映画の舞台は1980年代。彼らの親たちは子供で、親とその親は日本統治時代を過ごしていたことになる。そう考えると、少年たちの世代から見ても日本統治時代のことは遠い過去ではなく、幼い頃からその影を上の世代からひしひしと感じていたはずだ。そして、その影を感じれば感じるほど世代間の隔たりは大きくなり、考え方や違いが大きくなるだろう。そのような宙ぶらりんな雰囲気が、少年たちの間にも流れている。影響されながらも干渉はされず、彼らはとにかく自分の力で生きていく必要性だけを押し付けられる。アチンの母親がいい加減自覚しなさいとしきりに説教をしていたように。だから彼らは迷いながらも、ひとつひとつの手段を試していく必要があった。風櫃から高雄に出たことは、ただの成り行きだったかもしれないが、彼らにとってのまず第一歩的な試みだったに違いない。
高雄に出てからは、少年たちは工場の仕事をしながら質素に暮らしていく。相変わらずよく喧嘩をしたり騒いだりして、子供っぽい面はなかなか消えないが、大きな都会の中の一部となったことで、身の回りの事象を観察し、それらに対して批判したり影響を受けたりするようになる。それらの経験は彼らが自分自身のアイデンティティを意識するきっかけとして描かれている。例えば彼らの家の大家であるジンフーとその恋人のシャオシンに対して向ける少年たちの目線は鋭く、好奇心に満ちている。ジンフーは仕事をしながら夜学に通いつつもシャオシンと同棲していて、白シャツがよく似合う好青年だ。彼はこの映画の中では都会的で自立した若者像の代表的存在として描かれている。少年たちは窓からこっそりと2人の生活の様子を覗いて、身近な観察対象として好奇の目を向ける。そしてジンフーを真似てか、恋人を作ろうと躍起になったり、さらなる自立のためにカセットテープで商売を始めたりするのだ。だがその多くは空回りに終わる。
彼らはそのようにして生きていく道を模索するのだが、その姿を最も美しく描いたシーンがある。そしてこのシーンはこの映画の中で最も印象的だ。洋画の上映があると誘うバイクに乗った詐欺師にまんまとついて行ってしまい、いかにも怪しい空きビルの11階に行くように指示される。詐欺師は金を受け取るとさっさとバイクで走り去るが、少年たちは若干疑わしいと思いながらも11階に登っていく。もちろん、そこでは洋画が上映されることはない。しかし、その代わりに高雄が一望出来る景色があった。それは真っ直ぐな窓枠に囲われて、まるで映画のように四角く光っていた。ビジュアル的にも力強いシーンなのだが、窓の景色を眺めた少年たちが、そこから様々な感情を持ったことが静かにゆっくりと伝わってくるところがこのシーンの素晴らしいところだ。以下がそのシーンのセリフだ。
「何もない」
「クソ!騙されたんだ」
「確かにカラーでワイドだな」
「男を探そう」
「この広い高雄でどうやって探すんだ」
「お前が悪い」
「一緒に来て今さら言うな」
「900元でこの景色か」
「お前のせいだぞ」
「クソ!騙されたんだ」
「確かにカラーでワイドだな」
「男を探そう」
「この広い高雄でどうやって探すんだ」
「お前が悪い」
「一緒に来て今さら言うな」
「900元でこの景色か」
「お前のせいだぞ」
少年たちは言い合いをしながらも景色に見惚れてしまって段々と静かになる。なんて大きな町なんだろうとか、綺麗だとかとは誰も言わない。ただその都会の大きさと緻密さと鮮やかさに見惚れていた。ここに来て彼らは気づいただろう。僕たちは映画の中の世界に来てしまったみたいだと。そしてなんの決意もなしに移り住んだこの都会の姿から、自分たちがこの景色の一部となって暮らしていることを初めて実感したことだろう。僕たちはもう田舎のワルな少年ではなくなったと。僕たちは高雄に住む人間、いやこの世界に住む人間であり、それと同時にとても自由であり、いつでもたった1人であるということ。そして自由さは、自分の力で生きていくことの責任の裏返しであるということ。侯孝賢はこのことを少年たちに自覚させたのだ。詐欺師の登場からの意外な展開だが、少年たちはとても眩しそうにその景色を眺め続けた。
少年たちが風櫃に戻って暮らすことはもうないだろう、と私は思う。それは彼らが自分の人生のために生きていくことを決意したからだ。第二次世界大戦が終わり、日本と台湾はそれぞれどのようにして民族としてのアイデンティティを構築していくかを模索した。この映画は1980年代が舞台となっているが、現在でも若者たちの自立を目指す生き方は変わっていない。この映画は、そんな新しい世代の新しい価値観が台湾にて産声を上げる様子を描きたかったのではないか。そしてそれはどの時代でも、どの世界でも変わらぬ、若者たちの姿でもある。
選評
ストーリーテリングに注目して、素直に書いているという印象でした。本稿では、若者たちが生きていく道を模索する姿を最も美しく描いたシーンとして、映画が見られると騙されてチケットを買い、映画館とされていたビルに着くと、そこは廃ビルで、がらんどうの部屋に切り取られ、高雄の風景が映画のスクリーンのように見えるという部分を取り上げていました。まさに美しいシーンなのですが、映画の中盤に差し掛かるあたりの、彼らが高雄に来てすぐの場面であり、このシーンをもって本作を語り終えるのは、勿体ないと思います。
このエピソードの後、シャオシンへの恋心、父の死、すれ違い始める仲間たちの気持ちなどが、それぞれ同じ場所で繰り返して描かれ、次第にその変化を観ている我々も受け取ることになります。そして、兵役というある意味、強制的な青春の終わりを前に、カセットテープを大声で安売りするラストシーン。これらをつぶさに観ていくことで、本稿に書かれている“土地と人間の関係性を丁寧にフレームに収めた上で、そこに浮かび上がるストーリーテリングを大切に扱う作家”としてのホウ・シャオシェンが浮かび上がるのではないでしょうか。
ここからは総評になるのですが、みなさんホウ・シャオシェンの画面構成、ノスタルジーをポイントとして捉えていました。彼がしばしば用いる撮り方として、フレーム内にフレームが存在し、その向こうから人物がやって来るという構図があります。カメラを構えた位置から動かさず、観客からは見えない部分での動きも含めて、定点のまま描くというこの手法によって、見えている光景が額縁化されて“風景”となり、焼き付けられるという効果があるのだと思います。これによって、観ている者に時の流れを感じさせることになるのではないでしょうか。
今回の、『風櫃(フンクイ)の少年』では、若者たちが何故その行動をとるのかといった説明はほとんどないので、ストーリーとして掴むのに苦労されたところがあるように見受けられました。やけっぱちに大声を張り上げてカセットテープを安売りしてしまうラストシーンを観た時に沸き上がる感情はなんだったのか。ストーリーとして、あのラストシーンが機能するのは何故なのかを考えることが、本作における撮影手法を絡めて読み解いていく、ひとつの方法だと考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)
このエピソードの後、シャオシンへの恋心、父の死、すれ違い始める仲間たちの気持ちなどが、それぞれ同じ場所で繰り返して描かれ、次第にその変化を観ている我々も受け取ることになります。そして、兵役というある意味、強制的な青春の終わりを前に、カセットテープを大声で安売りするラストシーン。これらをつぶさに観ていくことで、本稿に書かれている“土地と人間の関係性を丁寧にフレームに収めた上で、そこに浮かび上がるストーリーテリングを大切に扱う作家”としてのホウ・シャオシェンが浮かび上がるのではないでしょうか。
ここからは総評になるのですが、みなさんホウ・シャオシェンの画面構成、ノスタルジーをポイントとして捉えていました。彼がしばしば用いる撮り方として、フレーム内にフレームが存在し、その向こうから人物がやって来るという構図があります。カメラを構えた位置から動かさず、観客からは見えない部分での動きも含めて、定点のまま描くというこの手法によって、見えている光景が額縁化されて“風景”となり、焼き付けられるという効果があるのだと思います。これによって、観ている者に時の流れを感じさせることになるのではないでしょうか。
今回の、『風櫃(フンクイ)の少年』では、若者たちが何故その行動をとるのかといった説明はほとんどないので、ストーリーとして掴むのに苦労されたところがあるように見受けられました。やけっぱちに大声を張り上げてカセットテープを安売りしてしまうラストシーンを観た時に沸き上がる感情はなんだったのか。ストーリーとして、あのラストシーンが機能するのは何故なのかを考えることが、本作における撮影手法を絡めて読み解いていく、ひとつの方法だと考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)