執筆者:エコダ95(ペンネーム) 学部4年 監督コース
映画は常に対象を見つめるメディアである。その性質は、観客が横並びの椅子に座り、スクリーンを長時間凝視するという形式そのものに表れている。メーサーロシュ・マールタ監督の『アダプション:ある母と娘の記録』は、まさにその特性を鮮烈に映し出す作品であり、視線の交換を通じて物語を紡いでいる。
映画は、中年女性カタの静かな朝の風景から始まる。時計の音が響く部屋で目を覚ます彼女に続き、クローズアップされた裸体が映し出される。この一連のショットは、カタの身体に時間の制約があるかのような感覚を観客に与える。そして、病院のシーンで明らかになるように、それは42歳という年齢で母親になることを望む彼女の心情を象徴している。
カタは不倫関係にある恋人ヨーシュカとの間で子どもを持ちたいと願うが、彼はその願望に否定的である。序盤、公園でカタがヨーシュカに子供が欲しいと告白する、二人の関係性が示されるシーンでは、少女アンナの視点でカタを見つめるカメラが、会話を捉えた長回しの中でヨーシュカが彼女を見つめるアップショットへと移行する。このアングルの移り変わりは、カタが常に「見られる存在」であることを強調している。
カタは、カメラや登場人物の物理的な視線、そして女性性の象徴として彼女を描く物語の視点、この二つの目で「見つめられる」存在だ。寄宿学校では傷ついた子どもたちの視線(監督自身も児童施設で育った経歴を持つ)を浴び、工場のシーンではドキュメンタリー出身のメーサーロシュ監督らしい、ドキュメンタリー的視点による隠し撮りのようなアングルで捉えられる(他の女性がカメラを見るショットすら挿入される)。また、カタがヨーシュカを待つレストランのシーンでは、物語と直接関係のない男性の性的な視線が挿入され、軽快な音楽と不快な笑みを伴った視線とが対立して強調される。こうした描写により、カタは母親としてだけでなく、社会における女性としての視線を一身に引き受けている。
また、カタに向けられる「目線」はカメラや登場人物の物理的なものにとどまらない。寄宿学校の生徒との会話シーンでは、生徒が母親に宛てた手紙を通じて、カタは「母」という存在への鋭い批判にさらされる。これらの言葉は、母になろうとするカタにとって、耳を塞ぎたくなるような現実を突きつけるものだ。
一方でカタは見つめる人でもある。寂しげに川が流れる窓外や、不倫相手の子供、そして彼の妻(結婚によって選択の自由を奪われている女性)、少女アンナと絶縁しようとする両親、アンナの結婚式(とそれによって傷つく仲間の少女達、そしてアンナ自身)、これらを彼女は目撃する。カメラは時にその視点となり、時にその視線自体をクローズアップして、強調する。カタは女性が社会の中で直面する現実を見続けているのだ。
一方でカタは見つめる人でもある。寂しげに川が流れる窓外や、不倫相手の子供、そして彼の妻(結婚によって選択の自由を奪われている女性)、少女アンナと絶縁しようとする両親、アンナの結婚式(とそれによって傷つく仲間の少女達、そしてアンナ自身)、これらを彼女は目撃する。カメラは時にその視点となり、時にその視線自体をクローズアップして、強調する。カタは女性が社会の中で直面する現実を見続けているのだ。
前述したように、カタは映画の中で女性性(そして母性)の象徴であり、客体化された存在なのだ。絶えず彼女に向けられる視線は女性・母を見るものであり、彼女が見るものは女性・母が見るものなのである。
奇妙なのは、カタを母の象徴たらしめているのが、彼女と擬似的な親子関係を築くアンナではないということである。二人が同じベッドで会話をするシーンでは、まるでアンナの方がカタを寝かしつける母親のように映る。彼女の腕に抱かれるカタは、母親のようには見えず、二人の様子はどこかアンバランスにも見える。それが具現化するかのように、次のシーンではアンナがカタの家に恋人を連れこんでセックスをしている場面をカタが目撃してしまう。予想できたことのはずなのに、あからさまに不機嫌になったカタはアンナからローブを奪い、その後、自分を笑ったアンナを殴打する。ここでカタは「誤った母親」としての側面を露呈するが、それが逆説的に彼女の母性を浮き彫りにする。つまり、彼女を母親としているのは、アンナとの関係そのものではなく、アンナに対して抱く「母親になりたい・子供になってほしい」という感情の方なのだ。そして、カメラはこの両者をはっきり区別して捉えている。だからこの二人の関係性は「擬似親子」「友人」「シスターフッド」と言い切ることができない。二人の目的はどこかで食い違っているし、どこかでお互いを利用し合っている。現に、カタはアンナの「養子はやめて」という警告を最後に裏切ってしまう。
映画は最終幕でアンナの結婚とカタの養子縁組を並列的に描きながら、その両方に微妙な不安を漂わせる。アンナの結婚式は傷ついた少女たちや陰り始めた彼女の表情のクローズアップを通じて、幸福の不確かさを暗示する。(楽しげな音楽との対比で、その不安感を露骨に強調するほどである)
一方、カタは子どもを産むことに固執せず、養子縁組という選択で母になる道を歩み出す。興味深いのはここまでクローズアップと見た目ショットで、人物のディテールの強調を繰り返してきたカメラが、ラストカットでロングショット、しかもフリーズフレームで子どもを抱き抱えるカタの姿を捉えている点である。女性として客体化されていたキャラクターが、自らの意思で母として歩み出した途端、観客は子を持つ「母」としてのカタのディテールを窺い知ることができなくなるのである。彼女がアンナのように不安な表情をしているのか、笑顔なのかすらも知ることができない。
『アダプション』はしばしばフェミニズム映画として評されるが、その視点は現代の作品と異なる。2023年のグレタ・ガーウィグ監督の『バービー』では人間になったバービーが産婦人科を受診するシーンで幕を閉じるが、その場面が主体的な女性の今後の明るい人生を想起させるのに対し、『アダプション』のラストはそういった楽観主義ではない、現実主義の視点から、自らの意思で母となった女性の姿を見つめている。
このラストに関しては、結末を観客に委ねているわけではなく、この映画の結末は「見つめられること」なのだと、私は考える。メーサーローシュ監督は養護施設で育ち、女性を対象としたドキュメンタリーでキャリアをスタートさせ、自伝的な作品も数本制作した。だからこそ、見つめる視点と見つめられる意識に非常に敏感であり、今作の演出にもそれが如実に現れている。
このラストに関しては、結末を観客に委ねているわけではなく、この映画の結末は「見つめられること」なのだと、私は考える。メーサーローシュ監督は養護施設で育ち、女性を対象としたドキュメンタリーでキャリアをスタートさせ、自伝的な作品も数本制作した。だからこそ、見つめる視点と見つめられる意識に非常に敏感であり、今作の演出にもそれが如実に現れている。
『アダプション』は全編を通してカタという女性を「見つめ」、そしてラストでは窺い知れぬ彼女のこの先を見つめる観客の視線によって、その先の物語を暗示させる。カメラが見つめること、そして映画自身が見つめられることで生まれる視線の交差よって、現実を生きる一人の女性の姿を単純化せず、多面的に浮かび上がらせることに成功している。
選評
本作において注目すべきポイントがバランスよくピックアップされており、その中で、カタとアンナの関係性を “二人の目的はどこかで食い違っている” と論じる部分は、鋭い視点でした。
一方で、公園でカタがヨーシュカに子供が欲しいと告白する様をアンナ達が観ているシーンでのアングルの移り変わりをもって、カタが常に「見られる存在」であると強調していると読むのは少し解釈が過ぎるかもしれません。そのほか、女性として客体化されているとする論旨に寄せようとするあまり、カメラの視線と映し出されている人物の視線をその一点に引っ張りすぎているという印象を受けました。
それらの視線を捉えている表現が、あるいはその表情が劇中の台詞で語られる心情とは裏腹に平坦であるからこそ浮かび上がるものがある。それらの表現がストーリーテリングにどう繋がっているのかを意識していくことで、書けることが広がるように思います。
以上が、選評で、ここからは総評となりますが、不倫相手との子供を望み、それが叶えられない主人公のカタが、親の愛情を受けられず寄宿学校で生活するアンナとの出会いをきっかけにして、アンナの結婚を支援し、自分は養子を迎えるという二つの選択をするという物語である『アダプション/ある母と娘の記録』は、要所要所の描かれていることを書くことは出来ても、それを論考していくことが難しいものだったと思います。
みなさんクローズアップや視線、表情に着目されていました。強い意志を感じさせるセリフや行動を描き出す際に、その感情が読み取りづらい表情でのクローズアップが多用されるのは何故なのか。当時の社会的状況などの投影は?などを考えていくとき、メーサーロシュ・マールタの映画作家としての独自性が浮かび上がるのではないでしょうか。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)
一方で、公園でカタがヨーシュカに子供が欲しいと告白する様をアンナ達が観ているシーンでのアングルの移り変わりをもって、カタが常に「見られる存在」であると強調していると読むのは少し解釈が過ぎるかもしれません。そのほか、女性として客体化されているとする論旨に寄せようとするあまり、カメラの視線と映し出されている人物の視線をその一点に引っ張りすぎているという印象を受けました。
それらの視線を捉えている表現が、あるいはその表情が劇中の台詞で語られる心情とは裏腹に平坦であるからこそ浮かび上がるものがある。それらの表現がストーリーテリングにどう繋がっているのかを意識していくことで、書けることが広がるように思います。
以上が、選評で、ここからは総評となりますが、不倫相手との子供を望み、それが叶えられない主人公のカタが、親の愛情を受けられず寄宿学校で生活するアンナとの出会いをきっかけにして、アンナの結婚を支援し、自分は養子を迎えるという二つの選択をするという物語である『アダプション/ある母と娘の記録』は、要所要所の描かれていることを書くことは出来ても、それを論考していくことが難しいものだったと思います。
みなさんクローズアップや視線、表情に着目されていました。強い意志を感じさせるセリフや行動を描き出す際に、その感情が読み取りづらい表情でのクローズアップが多用されるのは何故なのか。当時の社会的状況などの投影は?などを考えていくとき、メーサーロシュ・マールタの映画作家としての独自性が浮かび上がるのではないでしょうか。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)