【日芸 映画批評連携】2025#2-2 「現実に侵食する映画」

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【日芸 映画批評連携】2025#2-2 「現実に侵食する映画」

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  1. 執筆者:檜垣 武虎 映像表現・理論コース/シナリオ専攻 2年
  2. 選評
  3. 総評

執筆者:檜垣 武虎 映像表現・理論コース/シナリオ専攻 2年

 デンマークの映画監督にラース・フォン・トリアーは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『奇跡の海』『ヨーロッパ』『ドッグヴィル』など数々の前衛的な作品を手がけた巨匠として国際的に高い評価を得ている。トリアーは19995年に映画制作においてロケ撮影やジャンル映画の禁止などを徹底した「ドグマ95」と呼ばれる映画的制作方法を設け、自身の作品『イディオッツ』においてその理論を実践した。またトリアーの作品には露骨な性描写を用いたものもあり、物議を醸した作品は少なくない。トリアーの1987年の作品『エピデミック〜伝染病〜』は、映画と現実との境界の消失についての作品である。
 『エピデミック』は監督のトリアー自身と脚本のヴァセルが、それぞれ監督、脚本の役を得て登場する。彼らは伝染病をテーマにした映画を企画しており、その企画の内容もまた映像として映画に登場する。これはいわゆる「メタ映画」と呼ばれるもので、映画内映画の手法を採る。映画のストーリーの内に新たにまた映画がある、ということにはどのような意図・効果があるだろうか。
 劇中劇の映画で思い出されるのは‘66年のロブ=グリエの『ヨーロッパ横断特急』である。こちらも映画制作とその映画とが互いに交錯しながらストーリーが進行する。『エピデミック』との相違点は、前者がクライムものであるのに対し後者はホラーないしサスペンス調の作品であることである。『ヨーロッパ横断特急』も『エピデミック』もラストで劇中劇と映画内現実が交差する点において共通するが、しかし映画から得られる効果は大きく異なる。

(C)1987 Zentropa Entertainments1 ApS

 『ヨーロッパ横断特急』は、犯罪組織へ与しようとする男とその破滅を描く映画の制作を主軸に据えて物語が展開する。制作者たちが特急車内で議論を交わす一方、男は組織での活動を粛々と実行する。ラストでは男の顛末が新聞に掲載され、制作者たちは目を丸くするといった内容である。それに対して『エピデミック』はトリアーやヴァセル、ウド・キアなど実在の人物が本人役で登場する。劇中劇では医師メスメルがペストの流行に対応していく姿が描かれ、ラストではそれまで流行していると言われていた未知の伝染病が、トリアーらの酒宴の最中に発生する。すなわち両作品とも「映画↔︎現実」の基本構造の解体を試みた点においても共通する。ただし『エピデミック』の場合には、作中の人物が『エピデミック』の制作者であることを考えると『映画↔︎「映画↔︎現実」』の構造の解体が成立する。すなわち『エピデミック』はフィクションから現実世界への侵食を試みた作品といえる。
 『エピデミック』公開の1987年の前年1986年といえばチェルノヴイリにおける原子力発電所事故の年である。この事故は発生から瞬く間に情報が広まり、その被害や恐怖は世界中に伝播した。すなわち当時の社会には放射性物質に対する漠然とした恐怖感が蔓延していた。これは我が国における東日本大震災にも嵌合できることで、東日本大震災発生当時もまた放射能に対する誤った情報や風評がさながら疫禍の如くに国内に伝播した。
 「放射性物質」、この未知で不可解、しかし人の命を奪いうるものとそれに対する人間の感情の動きとはまさしく伝染病の如くに社会に侵食する。トリアーのいるデンマークで、例えばテレビや報道において「ああソ連も大変だな」と考えるのは至極安直であるが、しかしいざ目と鼻の先で人命に及び得る未知の脅威が迫っている状況は想像に易い。ジリジリと脅威が接近しているかもしれないという状況下において『エピデミック』は爆誕した。

(C)1987 Zentropa Entertainments1 ApS

 『エピデミック』における「映画↔︎現実」を原発事故になぞらえると、外部情報(劇中映画)と情報を享受する社会(映画内現実)とがラストにおいて交錯し、すなわち放射能の脅威がテレビの中の虚構ではなく現実に侵蝕し得る疾病であることを示している。映画情報サイトなどで『エピデミック』を繰ると「ジャンル」の欄に「ホラー」とある。しかしこの作品は「ホラー」はおろか、むしろ一語のジャンルによって包括しうるものとは捉えられない。いわばこの作品は警鐘とも捉え得る作品で、例えばカミュの『ペスト』の如くに疾病とそれを取り巻く社会の動きを描くものとは異なり、社会という「現実」と疾病という「虚構」との交差を作中作によって表現した、現実に侵食する映画と言える。観客は伝染病の蔓延する映画とその制作陣のやり取りとを傍観しつつ、段々と現実と虚構との境界を見失う。唯一画面に赤字で打たれた「EPIDEMIC」の文字によって観客は映画内現実と現実との境界を認識するが、しかしラストにかけ映画内現実と映画内映画との交錯によって観客は映画と現実との境界の消失を初めて体感し得るのである。いわば観客は映画を鑑賞するのではなく、映画を「体験」するのである。これは初期映画におけるいわゆる「アトラクションの映画」の持つ観客への感覚的・心理的作用に他ならない。すなわち観客は作品を通して映画の原体験へと誘われるのである。

選評

 映画の構造から、アラン・ロブ=グリエの『ヨーロッパ横断特急』を比較し、そのうえで、『エピデミック』がフィクションから現実世界への浸食を試みていること導き出し、チェルノヴイリの原発事故の時代背景へと至るのは、素晴らしい視点と筆致でした。このあたりは、劇中劇で表現される「伝染病汚染地区」ともリンクしていました。

 さらに、画面に見えているEPIDEMICの文字によって映画を「鑑賞」できていた観客がラストに映画を「体験」することになるという指摘も説得力があり、“観る気にさせる”文章でした。

総評

 本作のメタ構造を皆さん指摘されていました。但し、その“劇中劇”の、“入れ子構造”の第一の、一番外側の入れ子、つまり、映画というものはそもそも作り話であるという前提が意識のなかで曖昧になっているようなところが散見されました。

 この、“劇中劇”のひとつめの“劇”のことをしっかり意識できていると、EPIDEMICの文字に関しても、それが何かを象徴している、あるいはこの文字があることによって観客が現実と映画の中の現実を意識するなどの論旨の方向づけも明確になると思います。

 そのほかの点を挙げるとすれば、本作において、EPIDEMICという文字がタイプされるとともに画面に刻印され、そこからからのシークエンスは、ラストシーンでの床や壁が映し出されていること。それを映し出しながら、外側からの声によって本作のことの顛末まで含めての概要が語られていること。つまりは、“惨事は既に起きてしまっている”ということも、もう一つのポイントであったと思います。 

(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)

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