【日芸 映画批評連携】2025#2-1 「映画に苦しむ映画」

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【日芸 映画批評連携】2025#2-1 「映画に苦しむ映画」

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  1. 執筆者:田中 悠太 映像表現・理論コース1年
  2. 選評

執筆者:田中 悠太 映像表現・理論コース1年

 本作は『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(Dancer in the Dark、2000)や『ドッグウィル』(Dogville、2003)など従来のスタイルに捉われない実験的な作品で成功を収めてきたデンマーク映画の鬼才ラース・フォン・トリアーの2番目の長編映画だ。彼の作品は過激な性描写や精神障害などタブーとみなされるテーマを独特な映像表現で描くことによって、テーマそのものが持つおぞましさを適度に打ち消しており、洗練された視点でその内容と向き合うことができる。ラース自身と、脚本家のニルス・ヴァセル、その他にもドイツの俳優であるウド・キアなどが本人役として登場する。作家が実名で出演し、しかも主人公である。つまりこの映画はラースの自己言及が大きな軸としてある。監督と脚本家が劇中で映画のシナリオを作り、現実世界でもその映画と同じ現象が起きていくストーリーで、すなわちメタシネマと言える。

(C)1987 Zentropa Entertainments1 ApS

 前作『エレメント・オブ・クライム』(Forbrydelsens element 、1984)での大規模なセット、大勢の人々、固定カメラの俯瞰ショット、などのダイナミックな映像のタッチから大きく変化した作品であり、後に発表するドグマ95の手法を取り入れている。
 本作はメタ構造を通じて、新しい映画のスタイルを模索するラースの映画監督としての苦悩が描かれている。冒頭、ラースがニルスとの電話の後タクシーに乗り込むシーンにおいて黒人男性と出会う。この男性は後で神学者として劇中劇に登場する。彼は劇中劇の中で、たった2日で聖職者になれることを語るが、礼拝をする前にアーメンと言ってしまい、礼拝のセリフも極端に短く途中で止まってしまう。このことから彼はラースとニルスの宗教と教育システムへの風刺を表現するために作り上げられた人物である。車のエンジンがかからないことで高らかに笑う彼のクロースアップ、このカットは作品世界の彼が作り手であるラースを嘲笑しているようにも見え、これはこれからラース自身が自ら作り上げた映画に苦しめられることの暗示だとみなすことができる。
 ラースとニルスが企画している映画、すなわち劇中劇で描かれる映画の主人公・メスメル医師はラースにとってのもう一人の自分である。そもそもメスメル博士をラース自身が演じているし、カットの類似するイメージからもそれを読み取ることができる。たとえばメスメル博士が湖にいるカットからつながるのはラースの家の鶏を煮込んでいる鍋のカット、これは後者のカットに出てくる鍋に浮かぶ白い灰汁が湖に浮かぶ白い泡を彷彿とさせる。ラースが湯船にコップを浮かべるカットからつながるのはメスメル博士がヘリコプターからのロープにつかまり川を渡るカットであり、浮かんでいるコップとメスメル博士のフレーム内の位置がほぼ変わらず、川と湯船も結びつけることができる。これらのメスメル博士が登場するカットとラースが登場するカットのつながりが指摘でき、2人の関連が読み取れる。
 作品を通じてラースの3つの不安が描かれている。「Epidemic」という赤い文字で書かれたタイトルが映画を通して映り続けていて、友人のクルフとワインを飲みかわすシーンやニルスが自分の年齢を偽って少女と文通をしていたエピソードを話すシーンなど、シナリオ制作に関係ないシーンでも左上の赤い文字はモノクロの映像の中で目立ち続ける。この文字はラースに付きまとう不安そのものの象徴ともいえる。

(C)1987 Zentropa Entertainments1 ApS

 それらのことから一つ目の不安は、旧体制に歯向かう不安だ。劇中劇でメスメル博士は自身の考えと所属している医師会の考えが異なることが原因で、脱退する。医師会は伝染病についてなすすべなしと結論付けている一方、メスメル博士は実際に汚染地区に出向き治療を行いたいと主張している。その際に他の医者から「裏切り者」、「医師であることを恥ずべきだ」などと罵られ、強く非難される。従来の意見に異議を唱える姿は、新しい手法で映画を変えようとする映画監督ラースと重なるところがあり、それによる非難の声も予想していたのだろう。
 二つ目は、自分自身の新しいスタイルへの疑念だ。劇中劇において、結果として伝染病の流行が加速する原因はメスメル博士のカバンであった。伝染病を食い止めようと従来と異なる方法で解決しようとしたことが逆に仇となってしまったのだ。ラースは「彼の理想主義がなければ問題はなかった」と語る。ある種の自虐的要素であり、自分自身がこれから進む道への疑いも感じられる。
 そして三つ目は、達成の先の不安だ。ラストシーンでギッテが催眠術により映画の中の世界に入り、発狂しそれに続くように次々と伝染病により登場人物が死んでいき辺りは血まみれになる。これまでのスローテンポで描かれていた日常が突然壊れる。これは自分の作った映画が予想以上の力を持ってしまったことを表し、さらに前作『エレメント・オブ・クライム』で主軸となっている催眠術が惨事を引き起こすきっかけとなったことから、結果的に元々の手法に戻らなければいけないのか、という不安が読み取れる。劇中劇でメスメル博士がロープを辿って暗闇から光があふれる外の世界へ脱出するシーンは希望にも見えるが、結局は自分も感染してしまっていて死に向かっている状況だ。ラストシーンのラースは強い光に照らされたまま茫然としていて、まるで外の世界に脱出したメスメル博士のようだ。その他にも取材のために人体解剖の現場へと向かうバスの中のシーンでは、どこまでも続くトンネルが抜け出せない地獄を表しているように見える。新しいスタイルの達成の先にあるものとは、成功なのか失敗なのか、成功したとしてもその先にあるのは希望なのかそれとも地獄なのかという迷いが伝わってくる。
 この映画はラースの覚悟を表していて映画界への挑戦状である一方、新しいスタイルへの不安が染み出ている作品でもある。

選評

 “映画界への挑戦状である一方、新しいスタイルへの不安が染み出ている作品”と論じる本稿は、ラース・フォン・トリアー自身の3つの不安が描かれていることを整理して提示して結論へと導く流れが読みやすく、“観る気にさせる”文章だと思いました。映画の中で映っていることの読み解きや類似カットのつながりによる関連は興味深い視点なので、このパートと、トリアー自身の3つ不安のパートとのつながりをしっかり伝えられていると、論旨はもっと明確になると思います。 (ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)

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