ホン・サンスの初監督作である『豚が井戸に落ちた日』は、近年の彼の作品になじんできた観客にとっては、だいぶ毛色が違って見えることだろう。こだわりのない色彩と構図など、その後の作品にも受け継がれている要素はあるが、ユーモアは控えめで、全体的におおらかさに欠けている恋愛サスペンスだ。
売れない作家ヒョソプと彼を先生と慕うミンジェ、夫婦関係は冷え切り、この作家と不倫関係にある妻ポギョン、その冴えない夫トンウという4人がオムニバス的に描かれる。それぞれのエピソードは次第に近づいてゆき、やがてミンジェに想いを寄せる同僚の男によって暴力的に交差する。
こう書くとシンプルなプロットのように思えるのだが、実際に観ると本作は、“よくわからない”のだ。そして観客は、なにか作家としての企みがあってこの仕上がりになっているのに、見ているこちらがそれを汲み取り切れていない、あるいは様々な理解の仕方ができるように、どうとでも取れるように断片が配置されているのだと思い込もうとしてしまう。
そこでなぜ、この作品がよくわからないのか、それを探ることにした。その結果、本作には、ミスリードしてしまうような、あるいは映っているのにはっきり受け取れない箇所があることに気づいた。先に書いておくが、それは葬式のくだりではない。またそれは、見ている側の問題でもなく、この作品においてホン・サンスが意図したものでもなく、きちんと撮ることが出来ていなかったポイントがあるためだったという結論に行き着いた。
今回はそれについて簡潔に書くことで、初めて観るときの足掛かりに、あるいはもう一度観るための動機になったらと考えているのだが、その性質上、ネタバレをしているので、ご了承の上、読み進めて頂きたい。
本作において混乱する要素として必ず取り挙げられるのは、葬式のくだりだろう。ただ、この部分に関しては、比較的整理が付きやすく、仮眠をとったポギョンが見た夢ということで何も問題はないので、それ以上は触れない。
もっと重要な部分で2箇所、悪い意味で曖昧な描写があるのだ。そこをはっきり受け取れていると、この映画は、腹落ちの仕方が大きく変わってくるというポイントなのだが、ホン・サンスは、それの描き出しにおいて、おそらくうまくいっていなかった。そしてこれは意図して曖昧にしたのではないように見えるのだ。
1つ目は、ポギョンは、ヒョソプとミンジェが裸で殺されている部屋の中が見えていなかったということ、そして2つ目は、明け方、ソファで新聞を広げたポギョンが、記事を見て、数秒固まったということだ。この2つのポイントがこの通りに見て取れた場合、すっきりとそれまでのエピソードが物語として焦点を結ぶ。
夜、ヒョソプの部屋を訪ねたポギョンが相変わらず鍵がかかっているドアを確認した後、窓から中の様子を見ようとし、窓を開けようとするが開かない。窓にはブラインドがかかっており、外からは中が見えないはずだが、隙間から見えないこともなさそうな映り方をしている。そしてその部屋の中で返り血を浴びた犯行後の男が、ポギョンが中をうかがっている窓を見上げるという切り返しがあり、裸で血まみれのミンジェとヒョソプ、そのあとに部屋全体も映される。
この時、ポギョンは部屋の中の死体を見たのかどうかが判然としない。見たのだと思えるような演出と捉えることもできそうでもある。去っていくポギョンの表情を捉えたショットは印象的かつ長めに映り、それは何かを悟ったかのような表情だ。それゆえに、ポギョンは、その凄惨な現場を見、なにかを心に決めたようにも見えるのだ。
通常であれば、なにかを見たのであれば、部屋の中のカットの後にもう一度それを見ているポギョンの顔へとカットが戻ることになるか、引きの絵になる場合でも、何かを見たと分かる仕草か声を重ねてくるだろうが、そもそもホン・サンスは、そういったカットや音をつなぐ撮り方をしない。
それゆえに、その後のカットでヒョソプの部屋から去るポギョンを捉える時、その表情を長めに映していることで、曖昧さが増してしまう。それは、この表情がとても良いから長く回してしまったし使ってしまった──のだろうが、このことによって、本来必要のなかった揺れが生じてしまっているのではないだろうか。
その揺らぎこそが映画を複雑で魅力的にするという意見には本作に関しては同意しない。家に帰り、夫との望まない情事の後、ポギョンはヒョソプへ電話をし、想いを伝える留守電を残す。このことで、ヒョソブの死体を見た後ではそんな電話はしないだろうから、彼女はあの時、部屋のなかの現場は見ていないということにはなるのだが、これすらも、その前のエピソードでポギョン自身の葬式のくだりがあったことによって、この映画の中の時制が見えている通りではないのかもしれないという印象を残しているせいで、見ている者は混乱してしまうのだ。
そして2つ目は、明け方、自宅でポギョンがソファに座って、届いた新聞を広げるシーンだ。ポギョンは新聞を広げ、記事に目をやったように見え、そして数秒固まる。この「記事を見て数秒固まる」のが、極めて重要なポイントなのだ。そして彼女はその後、窓の外へ目をやり、ゆっくり立ち上がると新聞紙を床に並べ、ベランダへ出てゆき、外窓を開ける──。
つまりは自殺をするということを示唆して映画は終わるのだが、これは唐突でシュールな終わり方なのではない。ポギョンと一緒にどこかへ旅立とうと約束したであろうヒョソプはターミナルには現れず、ポギョンが何度部屋に行っても彼はいない。そしてポギョンはあの時、殺された死体を見てはおらず、新聞の記事で事件として知ったからこそ、数秒固まって、静かな絶望とともに窓の外を見て、あの行動となるのだ。(ちなみに夜起きた事件があくる日の朝刊に載るのは普通にあり得る。)
だからこそ、ポギョンが「死体を見てはいない」、「新聞の記事を見て数秒固まる」、この2つの描写がくっきりと見ている者に伝わっている必要があるのだが、それが出来ていない。『豚が井戸に落ちた日』が、“よくわからない”というのは、このためだ。
本作において、時間はまっすぐに進んでいる。葬式という夢のパートも含めて。だからいま述べてきた2つのポイントがクリアになっていれば、オムニバス的な各エピソードはしっかりとラストのシークエンスに向かうストーリーとなる。是非これを踏まえたうえで、この作品を観てほしい。
ちなみに、過去、ホン・サンスを特集した際にLETTERSでキム・ミニ以前/以後について書いた文章もまだ残っているので、もしよかったらどうぞ。