執筆者:小山田 鴻 映像表現・理論コース/シナリオ専攻 2年
『豚が井戸に落ちた日』は、売れない小説家のヒョソプと、ヒョソプを「先生」と盲目的に恋慕う若い女性ミンジェ、ヒョソプと逢瀬を繰り返す人妻のポギョン、ポギョンの夫トンウの、都会で生きる4人の男女の関係が交錯する数日を、4人の視点からオムニバス的な形式で描いている。
本作が製作された年は1996年だが、1987年に民主化が宣言されて間もない1990年代の時代は韓国にとって急速な経済成長期であったと同時に、政治や経済の大きな変化により社会が混乱していた時代でもあった。当時のそのような社会背景が影響しているのか、物語は終始どこか不穏な雰囲気が漂い、登場人物たちの情緒や言動は突発的で不安定である。こうした彼らの不安定な言動が相互理解を阻み、彼らの孤独や不安を強めている。
ヒョソプとミンジェ、ヒョソプとポギョン、ポギョンとトンウのそれぞれの関係の間にある見えない壁を分析していきたい。
ヒョソプとミンジェの関係だが、彼が彼女と関係を持つ理由は、彼女が貧乏だからで「下には下がいる」精神である。ミンジェは、盲目的な献身ぶりで彼に尽くし、ヒョソプにその好意を利用されていることにも気づかず、プレゼントを貢ぎ、原稿の校正まで行う。ヒョソプのためにバイトを掛け持ちし、割のいいバイトが見つかったかと思いきや、それがアダルトアニメの声優だったなど、彼女はヒョソプと社会に搾取される。
そんなミンジェにヒョソプが寄せる感情は、同族嫌悪である。ヒョソプとミンジェには、社会の下層に位置し、他者が自分に向ける感情を客観視できないなどの共通点がある。ヒョソプは、ミンジェの好意を利用し雑務を頼んだり、貢がせるなど都合のいい女として自分に尽くさせているが、反面ヒョソプ自身の劣等感を刺激するような存在である彼女は、目を逸らしている現実を突きつけ苦しむことになるのだ。
彼女は彼が抱える劣等感や不安を理解できないし、気づこうともしない。2人の隔たりは、ミンジェのヒョソプに対する一貫した「先生」という呼び方に表れている。
本筋から離れてしまうが、彼女の服装で印象に残ったのがミニスカートだ。彼女の若さ(というより幼さ)が強調されて、ポギョンとは対照的な存在の女性であることが視覚的に感じ取れる装いである。このような2人の関係は冒頭の喫茶店の場面からすでに表れている。喫茶店では、ミンジェが世間では全く評価されないヒョソプの原稿を読んで涙を流している。呼び方は「先生」で、彼女がヒョソプを盲目的に慕っており、2人の関係に上下があることが分かる。
また、ヒョソプが喫茶店の外で、植木鉢の中を這う虫を指で執拗になぶり追い詰める描写は、自分より下にいる存在への支配欲、冷酷な態度が垣間見える。そして、ミンジェが原稿を読み、「小説の最後で女性が死んだところに感動した」と言うが、この後の彼女の結末を皮肉っている。
ヒョソプとポギョンの関係は、上述したヒョソプとミンジェの関係を逆転させたようなものになっている。ポギョンの服装は地味でも、服の質感からミンジェに比べて上等なものを身につけていることが分かる。髪も綺麗にセットされていて、落ち着きのある大人の女性である。ヒョソプがミンジェに高圧的に接するのに対し、ポギョンには甘えるような態度をとっている。
ヒョソプのミンジェに対する感情が同族嫌悪なら、ヒョソプがポギョンに寄せるものは、羨望であり崇拝だ。金持ちで余裕のある彼女といることで、自身も彼女と同じような階層にいる人間だと錯覚し、自身の現状や劣等感から逃避しているのだ。ヒョソプにとってポギョンは崇拝の対象なのだから、彼女が抱える葛藤や不安の存在は見えていない。このことは、2人の相互理解を隔てる壁になっている。
トンウとポギョンの間には常に重苦しい空気が流れる。トンウはポギョンに頻繁に電話をかけるなど、彼女の状況が常に気になっている。だが、ポギョンはそんな夫の干渉気味な態度を鬱陶しく思っている。彼女の心は夫から離れており、彼女の関心の対象は不倫相手のヒョソプなのだ。トンウがポギョンを気にすればするほど、彼女の心は彼から離れていく。終始彼らの感情は噛み合わず、夫婦であるにも関わらず2人の間には透明な分厚い壁がそびえ立っているかのようである。話の流れから外れてしまうが、トンウが度々見せる潔癖症は彼と人を隔てる壁にもなっている。
また、個人間の感情だけではなく、4人が置かれた環境も彼らを隔てる壁として機能していることに注目したい。韓国の深刻な格差社会の問題は多くの韓国映画で取り上げられているが、この映画でも登場人物の経済的な格差が描かれる。困窮した生活を送るヒョソプとミンジェに対して、ポギョンとトンウの夫妻は金銭的に余裕のある暮らしをしている。この彼らの社会的な立ち位置は彼らの隔たりとして機能している。その隔たりが現れているのは、2組のキャラクターがとる行動に隠れた感情の複雑さの差異である。
まず、ヒョソプとミンジェが感情を表に出す際の行動には、怒鳴ったり、泣いたりなど分かりやすい感情表現が伴っている。その時の行動原理となる出来事も、仕事がうまくいかないことへの苛立ちや劣等感、恋人の家で異性と鉢合わせしてしまったなど、その出来事を受けて彼らがどのような反応をするか想像がつきやすい。彼らはキャラクターとして単純に設計されているのである。
対して、比較的富裕層に位置するポギョンとトンウ夫妻は、ポギョンは泌尿科に入っていくトンウを目撃し、夫の不貞行為を確信する。その際病院の受付係を強く問い詰める描写があるものの、その後の彼女の顔は無表情である。だが、その日の夜に写真屋で、飾ってあった自身の家族写真を床に叩きつけて割る。妻とすれ違い、仕事でもうだつが上がらず鬱屈としているトンウは、地方出張の夜、宿泊していたホテルで揉める男女を見て唐突にセックスワーカーを呼ぶ。また、映画終盤ではポギョンに対してレイプのようなセックスを行う。夫妻のこれらの行動に共通する点は、配偶者の不貞の発覚など彼らにとって感情を刺激するような出来事が起きると、その後に前触れもなく衝動的で暴力的な行動に出ることである。さらに、その行動に出た際の彼らの表情や態度は平坦で、2人のその時の感情が怒りなのか、悲しみなのか簡単には説明ができない複雑さがある。
行動原理が単純な貧困層のヒョソプとミンジェ、行動原理が複雑な富裕層のポギョンとトンウ。彼らのキャラクターの設計の差は、まるで住む世界が違うと言わんばかりに線引きがされているようである。
本作では、社会的、個人間に設置された見えない壁が登場人物の理解を阻んでおり、物語が進行して彼らの関係が明らかになるほど、登場人物の孤独感が強調されていく。
選評
4人の登場人物が相手を求めながら、相手を理解しないということに着目し、かみ合うことの無い関係性を掘り下げたところが良かったと思います。ただ、“まるで住む世界が違うと言わんばかりに線引きがされているよう”に見える彼らが、ある事件で交差するところが本作のもうひとつのポイントでもあったと思います。その部分に言及があるとさらに考察を進めていけるでしょう。
1点だけ留意するとすれば、オムニバス形式ではあるものの、“4人の視点から”描いているわけではないところが、ホン・サンスの作家性でもあると思いますので、カメラの位置と視点に関して見直してみるとより面白く本作を観ることができるかもしれません。
総評としては、今回の題材である、『豚が井戸に落ちた日』は、作品を掴み切れずギブアップした方もいらっしゃったと聞きました。たしかに、この作品は、「なんだかよくわからない」と自分も思いましたし、何故そうなのかを確かめたくなり、良い機会なので見直して、LETTERSとして文章化してみました。わからないときには、そこに映っているものをよく見ることに尽きると思っています。映画の中に見えているものだけで論じることは、“印象批評”と呼ばれるかもしれませんが、「見えている」ものを「見る」という、映画の原始的な部分でもあると考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)
1点だけ留意するとすれば、オムニバス形式ではあるものの、“4人の視点から”描いているわけではないところが、ホン・サンスの作家性でもあると思いますので、カメラの位置と視点に関して見直してみるとより面白く本作を観ることができるかもしれません。
総評としては、今回の題材である、『豚が井戸に落ちた日』は、作品を掴み切れずギブアップした方もいらっしゃったと聞きました。たしかに、この作品は、「なんだかよくわからない」と自分も思いましたし、何故そうなのかを確かめたくなり、良い機会なので見直して、LETTERSとして文章化してみました。わからないときには、そこに映っているものをよく見ることに尽きると思っています。映画の中に見えているものだけで論じることは、“印象批評”と呼ばれるかもしれませんが、「見えている」ものを「見る」という、映画の原始的な部分でもあると考えています。
(ザ・シネマメンバーズ 榎本 豊)